タイの寺院で水を浴び、悪いものを落とす――それだけなら、厄除けやお祓いに近い話にも聞こえる。
ところが2026年2月12日、タイ中部アーントーン県で葬送を担っていた男性について、女性らが中央捜査局(CIB)に相談した。女性側の申告では、「คุณไสย(クンサイ)」と呼ばれる呪術・黒魔術や不運を取り除くための水浴びの儀式を受ける中で、性的な行為をされたという。
そして3月2日、男性は刑事裁判所が出した7件の逮捕状に基づき、北部プレー県ソーン郡で逮捕された。 しかも捜査が進むと、寺院敷地内に存在していた乳幼児の墓地という、もう一つの問題まで浮かび上がってきた。
AI生成による解説イメージです。実際の寺院、事件現場、人物を再現したものではありません。
始まりは「夫の病気を何とかしたい」だった
現地報道によれば、最初に大きく報じられた女性の一人は44歳の教師だった。夫が1~2年にわたって慢性的な病気を患い、病院で治療しても改善しないことから悩んでいた2025年3月ごろ、SNSで男性の存在を知ったという。
男性はタイの寺院で葬送や火葬を担う「サッパルー(สัปเหร่อ)」と呼ばれる立場だった。日本の葬儀会社の社員とは少し違い、地域によっては遺体の扱いや火葬だけでなく、昔から伝わる葬送儀礼や呪術的な知識と結び付いてきた職能でもある。
女性側の説明では、「黒魔術を取り除く」「不運を洗い流す」といった儀式を1回200バーツ程度で受けられるとされていた。さらに、有力な警察官や軍人にも弟子がいるといった話を耳にし、信用につながったという。
しかし女性らは、寺院敷地内にあった「ドークケーオ室」と呼ばれる場所で水浴びの儀式を受ける中、身体への性的な接触や器具を使った行為を受けたと申告した。ここで重要なのは、これらは被害を申し出た女性側の証言であり、その時点で裁判によって事実認定された内容ではないという点だ。
AI生成による解説イメージです。実際の事件現場、押収品、証拠品の配置を再現したものではありません。
7件の逮捕状、それでも本人は「強制していない」と主張
相談を受けた中央捜査局傘下の捜査部門は被害申告を集め、裁判所に逮捕状を請求した。3月2日、男性は北部プレー県ソーン郡の関係者宅で逮捕され、儀式に使われたとされる刃物や丸い物品なども押収された。
3月4日のThai PBS報道では、警察が扱ったのは異なる日時に起きた7件で、性的な行為や、暴力・強制を伴う行為、物品を用いた行為などに関する容疑が含まれている。警察は逃亡や証拠への働きかけを懸念し、勾留段階で保釈に反対した。
一方、男性は取り調べで一部の身体への行為自体は認めながらも、相手の同意があり、脅して強制したのではないという趣旨の説明をしている。したがって本件は、「黒魔術を口実に性的暴行をした」と記事側が断定してよい段階ではない。
確実に言えるのは、複数の女性が被害を申し出て捜査が行われ、裁判所が7件の逮捕状を出し、男性が逮捕されたというところまでだ。 2026年9月18日時点で今回確認できた信頼性の高い公開情報からは、有罪判決が確定したところまでは確認できていない。
ところが捜査の横から「乳幼児の墓地」が出てきた
話をさらに複雑にしたのが、寺院敷地内に乳幼児の遺骨が埋葬されていた問題だった。
2月16日、家族側から「埋葬された子どもの遺骨を返してほしい」との申し出を受けて掘り起こしが行われ、少なくとも2体分の遺骨が見つかった。警察側はDNA鑑定などによって身元を確認する作業を進めた。
Thai PBSは、敷地内に100体を超える乳幼児が埋葬されているとの情報も報じている。ただし、ここは見出しだけで読むと危険だ。現場で一度に100体以上の遺体が「発見された」わけではなく、個々の身元や埋葬経緯がすべて確認された数字でもない。実際に2月16日の掘り起こしで確認されたのは2体分だった。
AI生成による解説イメージです。実在する乳幼児墓地や遺骨、事件現場を再現したものではありません。
なぜ寺院に子どもの墓地があったのか
これを「謎の乳幼児墓地」とだけ書いてしまうと、別の事件になってしまう。
Thai PBSは背景説明として、マハーチュラロンコーンラージャヴィドゥャ大学系の研究を紹介している。この研究はタイ北部ランパーン県の葬送文化を調査したもので、妊娠中の女性と胎児がともに亡くなる「ตายทั้งกลม(ターイ・タン・クロム)」などを特別な死として扱い、サッパルーや地域の民間信仰、呪術的知識が葬送儀礼と結び付いてきた事例を記録している。
ただし、この研究地域は事件現場のアーントーン県ではない。 ランパーンで記録された習俗がアーントーンでもそのまま行われていたことを証明する資料ではなく、タイの一部地域にこうした葬送観が存在してきたことを理解するための背景資料として見るべきだ。
男性の妻は、夫がこうした子どもの葬送を40~50年行ってきたと説明し、遺族の希望に基づいて埋葬したもので、遺体を売ったり別の目的に利用したりしたものではないと主張している。
一方で寺院の住職や地元行政は、こうした墓地が存在していたことを把握していなかったと説明した。その後、ウィセットチャイチャン郡当局は、必要な許可が確認できないとして子どもの遺体に関係する儀式や埋葬を停止させ、墓地・火葬場に関する法令に違反していないか調査を進めた。
これは「仏教が怖い」という話ではない
タイ好きなら、ここを一緒くたにしない方が面白い。
タイでは上座部仏教が社会の大きな基盤になっている一方、寺院や日常生活の周辺には、精霊信仰、護符、占いなどさまざまな民間信仰が共存する例がある。しかし、今回問題になった「黒魔術を取り除く水浴び」を、上座部仏教そのものの正式な儀礼だと位置づける根拠は、今回確認した資料からは見つからない。
実際、相談を受けた中央捜査局幹部も当初、この問題は宗教そのものではなく、個人の行為として調べるべき問題だという趣旨の説明をしている。
日本だって厄除け、お祓い、方角、墓相、占いをすべて同じ「仏教」と呼ぶわけではない。それと似ている。ただ、今回の事件にはもう一段厄介な要素がある。
寺院という場所、葬送を担う人物という肩書、昔から続く儀式、そして「偉い人も信じている」という権威が重なると、本来なら疑問を持つ行為にも「これは必要な儀式なのかもしれない」という説得力が生まれる。
AI生成による文化解説イメージです。実在の寺院を再現したものではなく、すべてのタイ寺院でこれらの信仰・儀礼が同時に行われていることを示すものでもありません。
一番不気味なのは、黒魔術より「信用の作られ方」かもしれない
黒魔術、聖水、儀式用の刃物、乳幼児墓地。単語だけを並べれば、B級ホラー映画の材料は十分すぎる。
しかし事件として見ると、問題はもっと現実的だ。夫の病気や家庭の問題で苦しんでいる人が、SNSで「力のある人物」を知る。寺院という場所が安心感を与え、伝統的な肩書が信用を補強する。その状態で「悪いものを取り除くには、この儀式が必要だ」と言われたとき、人はどこまで断れるのか。
信仰が事件を起こすのではない。信じる人の弱っている部分と、「自分には特別な力がある」という人物の権威が結びついたとき、信仰が悪用される余地が生まれる。
タイの寺院文化を「不気味な外国の風習」で片付けるより、この構造まで見た方が、この事件のB面はずっと深い。
【編集者が思うこと】
タイの寺や仏像を見ていると、信仰が生活の中に普通にある感じは、日本よりずっと強いと思う。それ自体はむしろ面白い。でも今回引っかかるのは、寺の中にいる、葬送をやっている、昔から儀式を知っている――それだけの条件が重なると、人はかなり信用してしまうというところなんだよな。
しかも「黒魔術を払う」と言われれば、効いたか効かなかったかを客観的に証明するのも難しい。病気や不運で追い詰められているときほど、こういう世界は入り込んでくる。黒魔術そのものより、人間が「この人なら何とかしてくれる」と思ってしまう仕組みの方が、俺にはよほど不気味に見える。
参考資料
- Thai PBS News:2026年3月4日 容疑者の勾留請求、7件の逮捕状と捜査内容
- Thai PBS News:2026年2月16日 寺院敷地内で乳幼児の遺骨2体を掘り出し
- Thai PBS News:2026年2月17日 乳幼児墓地をめぐる寺院・自治体・親族の説明
- Thai PBS News:ウィセットチャイチャン郡による子どもの遺体に関する儀式停止と法的確認
- Thai PBS News:タイのサッパルーと葬送・民間信仰、乳幼児墓地の背景
- News1:2026年2月12日 女性2人によるCIBへの相談と被害申告
- Mahachulalongkornrajavidyalaya University:サッパルーの葬送習俗・信仰・儀礼に関する研究